創設者 宇佐美 公有 氏

 

目次

 初めに
1 宇佐美先生の主な経歴・足跡 
2 中国との文化交流と日本の文字文化に大きく貢献
3 公有氏の新しい文字学
4 京都市 教育功労者表彰を受賞
5 文字講話と公有氏
6 写真で見る公有氏
7 宇佐美氏が編集及び企画した出版物
8 宇佐美氏が綴る白川静 
9 宇佐美公有先生を偲ぶ 泉 孝英 

初めに

 機構の創始者の宇佐美公有氏は、実績をあまり自慢せず、実際は、
三十年余、機構創立から今日に至るまで、事業(講習・研修会等)
の計画から実施まで、すべて自ら関わってきました。また、私財を
投げ打って多くの事業をすすめてきました。
 「これまでの主な事業」に記載されている事業のほとんどが公有
氏の足跡・実績となります。

1 宇佐美先生の主な経歴・足跡

〇 1935年二月2月7日生。本籍 愛知県名古屋市
  高野山専修学院卒 
〇 (宗)高野山真言宗僧侶(阿閣梨)、阿字観指導資格者
・(宗)高野山真言宗 宗務所に奉職(昭和57年3月まで〉
・(学)高野山大学密教文化研究所に弘法大師真蹟研究会設立する
・昭和58年宗祖弘法大師真蹟である「風信帖」「潅頂暦名」「御請来目録」を完全複製し、
 その冊子に学術的な解説を加え、密教文化研究所より出版。
・昭和61年3月文化交流視察のため訪中(北京・安徽省・江蘇省・上海など)
・(財)日本習字教育財団評議員に就任(昭和61年4月~平成元年3月)
・(学)淡海書道文化専門学校理事・評議員に就任 (昭和61年~平成元年
・(財)日本習字教育財団京都観峰会館館長に就任 (昭和61年4月~平成2年月)
・ 京都市協賛事業・京都市少年遣唐使訪中団第四・五次の団長として、二回訪中。
・文字文化研究所の発起人として、規約・構想を起案し、昭和61年3月に設立準備委員会を発足し、 副委員長に就任。
・昭和61年5月、文化視察のため訪米、ニューヨーク(メトポリタン博物館など視察、アジアソサ  ィテイ主宰ミセスゴードン氏と会談)・ハワイ大学、民俗学者数名と民俗資料の検討会に出席
・昭和62年7月第一回文字文化学術訪中団を結成し団長として訪中。(以後団長・副団長として、第 二十回訪中団で訪中)
・平成3年4月中華人民共和国山西省大原市対外文化交流協会顧問大原市晋詞文物管理処顧問に就任・山西省大原市晋詞の董寿平美術館設立の特別委員に就任。
・董寿平美術館の展示施設費用・機材及び技師を日本から派遣し、展示設備及び派遣費用を宇佐美公 有・慈子で全額寄付。
・平成5年10月、北京故宮博物院・皇極殿にて、原田観峰(義父)書法展を総合企画し開催。
 中国政府要人多数、日本大使館宮本大使・公使が臨席され盛大に皇極殿にて開催。
・国際文化交流のため訪中歴約160余回、訪米歴9回、訪台歴4回を数える。
・平成五年十月山西省太原市にて、山西省政府・太原市人民政府が主催で書法展開催の企画と山西省 書法家協会と書法文化交流会を企画し開催。
・平成5年10月、原田観峰書作品三十点を、北京故宮博物院に中華人民共和国建国後、初の文物収蔵 品として収納される。
・日中国交正常化25周年」記念事業。国際シンポジュウム「日中合同文字文化検討会」企画し、総括 責任者として、平成9年8月19・20日半陽市にて開催に従事する。
・平成11年3月⒕日、白川静「文字講話」講演会の総合企画運営、総合司会を続「文字講話」四回シ リーズの計二十四回全講演会を務める。
・国際龍門石窟保護協会理事就任(平成13年7月)
・龍門石窟研究所と日中拓本技術文化交流を立案し、原形を汚さない日本流の採拓法及び全形拓の指 導のため、三回訪中団を結成し団長として訪問。(古陽洞・看渓寺などで実践)
・「日中国交正常化三十周年記念・外務省記念事業認定」「日本年」「中国年」日本側実行委員
 会認定事業に参加し、中国国内の日本語科を有する十一の大学と北京故宮博物院に日本語版の辞
 書・図書など、それぞれ百五十冊を北京故宮博物院内欺芳斎にて贈呈式をに行う。
 大使、宮家邦彦文化担当公使・李剛中国・国務院主任・朱誠如故宮博物院院長を来賓に迎え、各大
 学代表者及び文字文化研究所関係者多数が参加)
・白川文字学の漢字普及講師養成のための養成講座を立案し開催。
・愛知博覧会瀬戸市会場にて協賛、会場用パネル
 制作立案と解説指導及び講師として参加。
・ 新潟県文化振興財団と共催事業。「古代文字か
 ら学ぶ漢字」パネル展制作立案と解説指導。
・講習会特別講師として、「新しい文字学による身
 近に息づく漢字」講習会を開催し好評を得る。
・富山県富山市ファーミリーパーク主催のフォーラム
 に講師として参加。「森を文字で読む」を講演。
・「文字文化研究所」を「日本文字文化機構」に改称。
 専務理事に就任。
・臨済宗大本山大徳寺の機関紙「紫野」に「漢字のなり
 たち」や「五山の送り火」など連載。
・京都アスニーの文化講座の講師として、白川文字学に準拠し、宇佐美公有が考案し創作した「新し い文字学」による教材で「京都の信仰空間(五山の送り火)や女の一生」を講演。その他、多数講演 会等を実施する。

 


 

 

 

2 中国との文化交流と日本の文字文化に大きく貢献

 以上が宇佐美氏自身が書き記したものですが、実際は記載できないほど多大です。また、事業を行う上で、財政的な問題が発生するわけですが、この問題に私財を投じて、陰ながら支えてきたのは、宇佐美公有氏と宇佐美慈子氏です。
・白川先生の業績を讃え続け、文化勲章
 受章のためにどれほど貢献されたことか。
福井県における白川文字学での漢字教育
 の導入にどれほど尽力されたか。
・漢字普及のために各地で行われる講習会 
 の実践をだれが始めたのか? 
・日本と中国との文化交流にも多大な貢献
 をされています。
・個人の業績としては、はるかに枠を超え
 た大きなもので、もう少し評価されるべ
 きものです。
         (編集委員より)

 

 宇佐美公有の「新しい文字学」について

 研究機関としての「文字文化研究所」の今後の使命は、
白川静先生が残された数々の研究成果である「字通」などの白川文字学に準拠し、
更に羅振玉・王国維をはじめ古代文字の研究者が残した文献や許慎の「説文解字」なども検証して、神聖王朝から封建国家への推移の中で生まれた漢字
《甲骨・金文・鳥書・籀文(大篆も含む)・古文・小篆》の変遷などを、その各々の時代の社会情勢などを鑑みて、総合的な視野で漢字に秘められた字義などを検証して、考案した学習法を「新しい文字学」と名付けた。
 この独白の「新しい文字学」は、漢字の成り立ちを通じて、
文字に秘められた思想・歴史・営みなどを紐解き、その意義などを平易に解説し、
倫理的 (生命の尊厳・人格の尊重・自然の恩恵や畏敬など)なことや自然環境問題までに波及する解説指導法であると同時に、国語学習法を改善し、
楽しく漢字の理解が出来るとともに広範囲の事柄が習得できる学習法である。

    研究機間  文字文化研究所
       創案者 宇佐美 公有

  (下図は公有氏の構想をもとに梅井作成)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

 

 

4 京都市 教育功労者表彰を受賞  


             最高顧問 宇佐美 公有 氏

本機構最高顧問 宇佐美 公有 氏が、京都市教育委員会より、教育功労者として平成二十八年十一月八日表彰されました。
 表彰事由は、「永年にわたり、文字文化研究所の設立・運営に尽力するとともに、本市立小中学校での漢字教室や、みやこ子ども土曜塾における取組などを通して、子どもたちの豊かな学びの機会を拡充し、その成果を広く全国に発信するなど、本市伝統文化教育や国語教育の充実発展に多大な貢献をされました。」
















 

5 文字講話と公有氏

 当文字文化研究所(本機構の旧名称)が主催し、全国的に注目された「文字講話」「続文字講話」の当時の資料や案内状が出てきました。
 当時は、研究所としてレジメ、案内、会場等々、多忙を極めた宇佐美公有氏の尽力によって運営されたものでした。
 二十四回の講話を終えた時、公有氏は、やっと白川先生のための事業として成し遂げた満足感と疲れがどっと出たそうです。
 しかし、このような大規模な講演会六年以上続けられたのは、「多くの支援者、当時の文字研究所スタッフや会員の皆さんの協力によるんだ」とよく話されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

6 近年の写真で見る公有氏の講演・講習会から






















































 

 

 

 

7 宇佐美氏が編集及び企画した出版物

・弘法大師真蹟シリーズ『風信帖Ⅲ潅頂暦名』「御請来目録』コロタイプ
 印刷にて完全複製冊子を高野山大学・密教文化研究所より出版。

・『日中合同文字文化研討会』発表論文集(和文・中文)。
 平成一0年七月一日出版。
・『明清の書と古硯の世界』『唐代の碑刻』『清代の碑刻』『石鼓と秦漢
 の碑刻』『董寿平名品展Ⅲ』『董寿平の芸術』などの表紙デザインと中

 田勇次郎先生の編集助手。図録六冊。

・『甘粛八千年書法源流』などの解説書編集し発行。

・白川静『文字講話』講演録(二十四回)七冊を紀要編集し、出版。

・白川静『文字講話』講演会における「板書解説書」監修し、四冊出版。

公有氏の主な著作物

・漢字から学ぶ教育者としての歩む道―命の尊厳と人格の尊重・自然との共生―

・白川文字学を学び 国語教育の新しい指導法を探る

・京のお盆供養と五山の見送り

・「古代文字を通して、文字の成り立ちと字義を学ぶ」

・「古代文字を通して、文字の成り立ちと字義を学ぶ」

・「文字の構成法」 人の側身形のさまざまな象(かたち)

・楽 し く 学 ぶ 漢 字 ― 漢 字 の 成 り 立 ち か ら ―

・京の祭祀について祭祀の所作の意義を語る漢字たち

・道徳教育と家庭における子育て

・神道と日本のしきたり

8 宇佐美公有氏が綴る白川静氏

記載されている文章は、宇佐美氏が、過去にまとめたものを転記しました。

文字文化研究所の設立と白川静先生
 昭和六十年に高野山から下山する契機は、現在の家内と結婚し義父である日本習字敦育財団の創立者原田観峰氏と長年の懸案であった文化活動のための研究所設立の協カの約束が得られたからであった。
 昭和六十二年三月設立に向かって可動しはじめた。かねてより準備していた規約をもとに準備委員会を立ち上げ、また研究所の名称も数ある中から中田勇次郎先生と二人で『文字文化研究所』と協議決定し、命名した。
 さらに中田勇次郎先生や準備委員会の諸氏を交えて、評議員の人選を始めた。その折、推挙する候補者に名が挙がったのは,白川静先生でした。

白川静先生、評議員に就任要請  昭和六十二年六月・七十六歳
 中田勇次郎先生が「この先生の漢字文化の研究の功績は並み居る学者が足元にも及ばん程のお人や文字文化研究所には不可欠の人で、将来の研究所の中心人物におるお方や。私もお願いをするけど、おうちもお願いにいきなはれ。怖い人だけど優しいお人でもある。よくお願いしてきなさい」と言われた。
 白川先生に就任のお願いのために、ご自宅に参上の際に受けた印象は、今でも鮮明に脳裏に残っている。先生は「中田先生からもお電話いただいております。今、私は大変な字書に取り組んでいるので書さ終えるまではあまりお手伝いは出来ないけどお引き受けしましよう。文字文化研究所の名称はとても良いですな。中田先生のご提案かな」と笑みを交えながら、奥様も同席された応接間で、お抹茶をすすめられながら優しくお話された。学問を究め威厳を開けだす大学者を想像して参上したわたしは、肩透かしを食らってしまった。私も数多く高僧や政治家・文化人・財界の方に出会いしていますが、鋭い眼光の中にすべてを超越したその姿にわたしの心が震撼した。長年求めてた人生の師に出会えたのです。
白川静先生の門下生でない私にとって、まさかこの出会いのが門下生以上のご縁をいただくことになるとは、ゆめにも思っていなかった。生涯の中の大きな出来事であった。

山積みされた字通の原稿
 その後、所要でお伺いする機会が多く、その折、ご自宅の応接間の片隅に山積みされていた字通の原稿の山が、時の流れに沿って、日増しに高くなっている。最後には、二メートル近くになっていた。「やっとできたが、最初の部分を書き足したいんだが、出版社の都合もあるしな」と原稿を手に取って見せていただいたことを、昨日のことのように思いだします。

つる夫人の存在
 ご自宅に年に十数回訪れた時には、つる夫人が暫くして、必ず同席され、ご夫妻の温かみのある茶菓子の接侍を受け、楽しく歓談で時を過ごさせていただいたことが、懐かしい想い出され忘れることはできま廿ん。
 ご夫妻は仲睦まじく私はいつも当てられ気味でした。何時も優しく微笑みで接していただいたつる夫人の存在は、初めて明かしますが、後の訪中や理事長就任、そして『文字講話』の実現に大きく係りあうこととになる重要な存在であった。
もし、つる夫人の存在がなければ、後日のすべてのことが実現できなかったと言っても過言ではないつる夫人の存在だった。先生とは阿吽の呼吸で物事が運ばれた、白川静先生を語る時には忘れてはならない、つる夫人の存在であった。

最初の講演会「漢字文化について」京都市にて開催 八十四歳
 文字文化研究所は、昭和六十二年六月に正式に発足し、文化事業を進める中で、再々開催する評議委員会には必ず出席され、貴重なご意見をだされ、存在感がありました。
 字通の校了の見通しがつかれた平成六年三月頃「宇佐美君、大学の講義以来だけど、久しぶりに講演をさせてもらうよ。何もお手伝いしていなかったのでね」といわれ、京都市中京区にあるウィングス京都で平成六年五月二十日「漢字文化について」と題して講演会を開催した。これが研究所における最初の講演会であった。
 その時、二百名を越す聴講者が参加され、白川文字学に渇望した人びとで入場制限をするほどの盛会であった。

鶴の一声 所長・理事長に就任へ 八十七歳
 平成九年四月初旬、中田勇次郎理事長から次期の理事長に推挙され、就任の快諾をお願いに何度かご自宅にお伺いし、懇願した際に、「僕はいままで、蝶(長)や蛾になったことはないんでねえ」と冗談を交えて固辞されておられたが、つる夫人が「お父ちゃん、こんなに宇佐美さんや中田先生からもお願いされているのに、蝶でも蛾にでもなったらどうなの。引き受けてあげなさいよ」と言われ、先生も「家内がそう言ので、ではお引き受けましょう」と所長・理事長をお引き受けしていただいた。まさに「鶴の一声」「神の声」であった。
 平成九年六月に開催した会員総会にて正式に就任された。

第二弾の鶴の一声で白川先生の初訪中が実現 八十七歳
 平成九年八月に日中国交正常化二十五周年事業の一環として、古賀一成先生からの提案で、遼寧省瀋陽市で開催を計画していた五月初旬にフォーラム「日中合同文字文化研討会」の総団長と基調講演のために訪中をお願いに参上した時、「僕は、文革の時に尊敬する先生が追放されているので、その人に対する義理があるので、中国には行かないと決めている」と言われた。その席上につる夫人がおられ、「お父ちゃん、何十年も経っているのやから、もういいんじゃないの。中国に視たいものがあるのに行ったらどうやね。パスポートもあるでしょう」といわれ別室からパスポートを持ってこられ「はい、これで行けますよ」先生は「うちのがそうゆうから行こうか」といわれ奥様からパスポートを受けとられた。
 中国からも訪中を強く望まれていた日本が誇る大学者の初訪中が決定した記念すべき日であった。その時の団長に西田龍男京大名誉教授 (西夏文字)が就任し、今井凌雪筑波大名誉教授(日展書家)も同行された。

白川先生、中国で基調講演  第一声で足跡を印す 八十七歳
 平成九年八月十八日、関西空港から中国へ出発。まず中国遼寧省大連空港に第一歩を印す。バスに乗り換えて高速で一路瀋陽市に団員とともに移動。
初の中国に於ける道中のバスから、地平線まで見える広大な風景や巨大な夕日に感嘆の声を出され、これから赴く未知の瀋陽の地に思いを馳せておられた。瀋陽では、日本国の大和総領事・遼寧省長はじめ関係者が総出で、白川先生や一行に盛大な出迎えをうけ、ホテルにて疲れを癒された。
 翌日は、中国各地より大学教授や研究者たちが大勢参加し 盛大に開催された。白川静先生の基調講演における白川文字学の研究発表は、当日参加された中国国内の『説文解字』研究者にとってはじめて聞くその「説文新義」の学説に衝撃をおぼえ、また白川静先生の多岐に亘る学識の深さと、アジアにおける漢字圏の復興に対する熱き想いは、参加者に感銘を与え、この講演が白川静の名声を中国全土の関係者に周知される契機になった。
 このフォ-ラム後の訪問地は、遼寧省の瀋陽博物院・大連・旅順博物館、そして北京・故宮博物院など歴訪し、白川先生の所望する青銅器など貴重な文物特別鑑賞を中心とした七日間の初めての訪中の目的は無事に達成された。

新華社テレビ局 白川静先生取材のため来日、研究所で収録
 平成九年八月三十日、瀋陽市で開催したフォーラムの開催目的や検討内容を参加された学者によって伝えられ、その中国国内での波紋をうけて、白川先生の業績とその学説を中国国内に報道目的の取材協力の要請が事前にあった。
 文字文化研究所の事務所に来日し、白川先生にインタビューされ、弁舌さわやかに白川節で持論を語られた。終わる頃には中国の取材班はすっかり白川文字学の虜になり、先生の著書に署名してもらい歓喜の声をあげ感激して無事取材は終わった。

第二回訪中と上海で決定した『文字講話』講演会 八十八歳
 平成十年八月二十日~二十五日の日程で、河南省(鄭州博物院・洛陽・龍門石窟・堰市・南陽市・漢代画像石博物館・上海博物館など白川先生の念願の訪問先ばかりで、研究所の会員に立命館大学の芸文会の清水凱夫会長含む会員も同行した。特に、上海博物館所蔵の国宝級の青銅器とその銘文拓本の特別鑑賞を希望され、長年交流のある文化部・国家文物管理局・上海博物館に要請し協力を得て実現した。小克鼎など国宝級や未公開の品を二十数点を地下にある特別室の庭園で鑑賞、先生は少年のように顔を高潮させ、ひとつづつ明解に解説され、並み居る博物館の館長はじめ学芸員たちも、克明に記録されたほどの内容であった。
 その後、館長が「先生はいままで何回中国においでになったのですか」との問いに、先生は「いや去年遼寧省と北京に行きましたが、上海にははじめて、中国は二回目の訪問です」。
 このことばには、彼らには白川先生がはじめて鑑賞する青銅器の饕餮文などを明解に解説され、また、よどみなく青銅器の銘文を解読される学識に驚愕の表情を表わしていた。それは歓迎の席で館長が「ご高齢ですが体調の良い時にいつでも結構ですが、先生を特別顧問としてのお部屋をご用意しますのでご教示賜りたい」と申し出があった。

『文字講話』講演会の二十回の演題決まる
 上海のホテルで私たち夫婦と朝食の時に、一枚の便箋を出され、そこには、二十回に分けた『文字講話』講演会の演題が書かれてあった。帰国後ご自宅に呼ばれ、詳細な講演会開催の必要事頂についてお話があり、一回の所要時間は二時間と決定した。
 この講演会に、文字文化研完所の事業としては、まず漢字文化の理解と普及を第一に考えられ、八十八歳の高齢でありながらも、五ケ年二十回にわたる文字講話の開催を企画され、世論の喚起に努めることを趣旨にこめられた。東洋の復権を生涯かけて願う先生の胸中を垣間見ることができた。
 この講演会の決定までの裏話をご披露すると、当日、ご自宅でご夫妻と私たち夫婦が同席して、中国旅行での出来事の経緯を、先生が話されるのを黙って聞いておられたつる夫人が「それはいいけどお父ちゃん二十回を年四回すると五年やね。九十四歳までかかるけど寿命は大丈夫かね」と笑いながら先生に尋ねられた。先生曰く「神様が決めることなので相談したから、最後までは生かしてもらえるだろうよ」と優しく語り掛けておられたお姿は、わたしの脳裏から永久に消滅しない場面である。
最後に「僕は楽しみながら、遊び心で最後までしたいので頼むよ。あんたと一緒にやって行きたいからね」。また先生は「皆から年も考えず長期の計画をして、大丈夫かなと冷やかされそうだけど」と一笑し並々なならぬ決意が窺えた。つる夫人も先生の決意をしっかりと受け止めておられた。
 この文字講話が、白川先生という大樹のもとで「文字文化研究所」の名が全国的に風靡されるとは予測もしなかった一日であった。

文化功労者顕彰 八十八歳
 平成十年十一月三日、宮中につる夫人同伴で参内される。文化功労者を代表して雨陛下に答礼の辞を述べ、両陛下ご臨席の晩餐に参席し、両陛下をはじめ皇族がたが受賞者の席にお言葉をおかけに歩を進められた。先生のお席では長年の学業の功績を労われるお言葉と、漢字と神事に対するご質問があり、先生の解説に大変ご興味をもたれ、所要時開を遥かに越えられたことなど、ご夫妻でその時のご様子を感慨深く詳細にお話してくださった。

白川静『文字講話』講演会の幕開けと会場探し 八十九歳
 平成十一年三月十四日、白川静『文字講話』講演会の幕は切って落とされた。会場は京都市商工会議所の講堂で第一・二回(六月十三日)を開催。
最初から三百人を超す聴講者が長蛇の列をなし、その対応に僅かなスタッフで対応で、ご迷惑をお掛けした苦い体験が浮かぶ。あまりの予想を超える聴衆対応のため、第三回会場は京都府教育文化センターの講堂に急遽変更して開催したが、アクセクの不便さで不評。京都市内の会場を探し回るが、白川先生にふさわしい会場がなく、国立京都国際会館に打診した。
 しかし白川先生は「素晴らしいところだけど、自分にはそんな晴れがましい場所は似合わないし良すぎる」といって拒まれた。私が「全国から様々な方が来られて、日頃なかなか入れない場所で、しかも借景の素晴らしい場は、適当な緊張感と余韻を味わいさせる効果があります。しかも高名な先生にふさわしい場所を設けなければ、何を考えているのか宇佐美はと非難の的になりますし、後世に残る二度と拝聴できない貴重な講演会はここ以外には考えられません。会場の人々が白川文字学に、白川静先生の警咳にふれる場としては最高の場所と考えますのでご承認ください」と訴え、やっと了承され実現した。

勲二等瑞宝章受章 八十九歳
 平成十一年十一月三日、学術功績を称え、勲二等瑞宝章叙勲され、会員一同は喜びに包まれた。先生は、この叙勲も一応固辞されたが、これを辞退されると今後の受賞に関わると大学側から説得され受賞。翌年新春に祝賀会が開催された。

文字講話聴講者と初懇親会を開催 八十九歳九ケ月
 平成十二年正月に『文字講話』講演会終了後、白川ご夫妻を招いて受賞祝賀を兼ね懇親会を開催。会場は、はじめて身近かで接する先生をみて、いやがうえにも熱気が高まり最高潮に達した。その時突然に先生から「各テーブルヘ挨拶に歩きたいので一緒に歩いて欲しい」といわれた。
 勿論、つる夫人も伴って二十を越す各テーブルをあの大学者が丁寧に挨拶回りされるお姿に、会場に参加された聴講者や会館関係者は、想像もしなかった面持ちで、先生のお人柄に深い尊敬の眼差で見送っていた。

つる夫人病に臥す 八十九歳                 
 おしどり夫婦のお一人のつる夫人が緊急に入院。その時の先生のご心配は計ることはできない。二度の入退院を綴り返し最後には病床の人となった。
 しかし『文字講話』は続行された。奥様への一番の慰めは、先生の講演中のスナップ写真だった。先生は毎週日曜日には病院にいかれ、夫婦水入らずのひと時を過ごされておられた。
 たまに私がお見舞いに行くと奥様は必ず「お父ちゃんが世話になってありがとう。これからも頼みますよ」とおっしゃる。「私こそこのような素晴らしい講演会に関われる機会を頂いて感謝しています」と申し上げると「なあ宇佐美さん、お父ちゃんが文化勲章をもらえるまで、頑張るからね」とお話された奥様は、文化勲章受賞の日までお待ちになれなかった。

『文字講話』講演会二十回完了 九十三歳九ケ月
 平成十六年一月十一日二十回の長期間に亘る連続の講演会を、ご高齢を感じさせない白川先生の気迫と内外から格別なご支援を賜って無事完了した。先生も「わしもよく頑張ってこられたなあ。本当にあんたたちにはお世話になったね」と私たち夫婦を労わってくださった。
私も運営の重責から解放され安堵しながらも、足掛け六年間のことが走馬灯のようにめぐる。先生の控え室に面談に訪れる来賓の方の対応に忙しく、また二十回ずっと先生のお世話をさせていただいた愚妻の慈子も同じ思いであろう。
 国際会館のルームA・桜の間・アネックスホールでの講演会を振り返り見て、白川先生は並々ならぬ想いで取り組まれたかを、多くの人の知るところであった。常に日常生活の中であらゆることに細心の注意をされて、体力維持のための散歩や、お忙しい執筆の合間のお昼寝、また講演会の一週間前には喉の調子と体調の調整には万端の準備をされるなどご苦労され、休講は絶対にしない決意で臨まれておられた。
 終了後、新規の講演会開催の声に対して「皆さんのお気持ちは有難く思いますが、何分高齢ですので、神様にお尋ねしてからご返事いたします」と要請に答えた。実のところは、病床の奥様の容態を気遣ってのことだった。容態が芳しくない病状を憂い、暫くはお側で共に歩まれた愛妻に時を費やすことを考えておられたのではないかとあとで推測する。

つる夫人ご逝去 九十四歳
 平成十六年四月、いつも明るく白川先生に寄り添い励まし支えてこられたつる夫人が逝去された。つらい長い闘病生活の日々の中でも、あれほど文化勲章受賞の吉報を楽しみに頑張ってこられたが、その吉報を待たずに冥界に旅立たれた。暫くは気丈な先生でも深い悲しみに浸っておられた。常に仲睦まじく笑みが絶えなかったご夫妻のあのお姿がみられない。この悲しみは先生をはじめご遺族は言うまでもなく、お世話になった私たちにとっても悲しみは深く、寂しさが日ごとつのるつる夫人のご逝去であった。
 平成十六年十月十日国立京都国際会館にて甲骨文・金文を中心とした新シリーズ・白川静『文字講話』講演会と名づけて開催、久方ぶりの再開に満を喫していた七百名を越える聴講者が会場を埋める
 この開催は、亡き奥様の喪があけて暫くした七月に、ご連絡があり「皆も待っておられるので、甲骨文・金文をテーマーで四回講演会をはじめようか。神様からもお許しをえたからなあ」と久方ぶりに笑みをもって話された。
この吉報は全国の新聞紙面を飾ったことは言うまでも無い。長年ご協カいただいた新聞社開係諸氏に感謝は忘れることはできない。

待望の文化勲章受賞  平成十六年十一月三日
 待ちに待った文化勲章受賞。しかし参内はされなかった。この文化勲章受賞の事前の通知に際して、喪中を理由に先生は辞退された。
 この高貴な性格を持つ明治の気骨の意外な反応に驚き、文化庁は、すぐさま過去に受賞者を調べ、受賞した学識者の中に、喪中に受賞しているものがおられることを告げて先生を内諾させた。
 その時、先生は喪中で参内しない条件で、了解をうけての受賞であった。研究所には各地からのインタビューの問い合わせやお祝いの電話が絶えなかった。

白川先生、アジア漢字圏復興を目指す研究所の設立構想を発表
 平成十六年十一月、文化勲章伝達式が文化庁審議官が入洛して、立命館大学にて執り行われた。白川静先生と梅原猛先生・津崎夫妻・故つる夫人の甥の方と私、そして大学の理事長・学長をはじめ関係者が参列。そのあとホテルで祝宴が開かれた。その席上で突然、先生が「東洋の漢字圏の復興を目指す研究所を大学内に設けて欲しい。五千万円の基金は用意しているので、この文字文化研究所と一緒になってすすめて欲しい」と発言された。
 それを受けて川本理事長・長田学長のお二人がロを揃えて「大学で研究所を建設して、先生のご意向通りの研究所を設立します」と答えられ宴は、盛り上った。
 この件については、二年前に先生から「宇佐美君、私も九十五歳で理事長は引退したいので、次の理事長を考えておいてください。わたしは上平副理事長を推薦する。実はまだ誰にも話していないが、わたしが東洋の再興を目指す研究所を大学に設けたい。
 そのために活動基金として五千万円用意しており、また字書三部作の印税も活勧費に充てるつもりでいる。学術的なことは大学が担当し、普及活動は文字文化研究所とあんたが担当し、推進役は宇佐美君がして欲しい。また出版部門は平凡社を考えている。立命館大学には、大分県にアジア太平洋大学があるので将来の窓口になるだろう。
アジア諸国から教授や学生が来ているので、アジア地域にネットワークができる。中国・韓国・台湾などに教え子もおるのでやりやすい。兎も角、その時期が来たら発表するから」と白川先生らしい広大な構想を描き、その実現を待ち遠しい様にお話されておられた。

所長・理事長 理事会で辞意を表明 九十四歳十一ケ月
 平成十七年三月中句に開催された理事会の席で、八年間務められた所長・理事長職の辞意を表明。出席理事会員が長年の功績に対して謝辞を表明。次期理事長に上平貢氏を承認する。 
 また、平成十四年頃に、山本史也著の「神様がくれた漢字たち」の原稿をお見せした時、かねてより文字文化研究所の編集委員会を設けることを提案されておられた。
 それは、さまざまな分野の叢書などの出版の際、編集委員会の審議したものは白川静監修を付加することを先生と取り決めていた。それを受けて理事会に編集委員会設置の経過報告し、議決を経て白川先生に再度ご承認を得た。
 平成十三年頃から白川先生との打ち合わせの中で、当時、先生が心待ちにされた『視覚で体系的に学ぶ漢字』DVD版や、起案としてお話していた「読んでわかる成り立ちと語源」「古代文字の書き順」や小学生用教材などがあった。それらは平成二十年初夏から陽の目を見ようとしていた。在りし日までに出版は叶わなかったが、きっとお喜びいただけるものとなり、先生が提唱された白川文字学の普及活動推進の原動力となれることを念じている。

文化勲章受賞祝賀会と最高顧問就任 九十五歳
 平成十七年六月十一日プリンスホテルにて、理事会・会員総会を開催し、平成十七年七月一日付で、最高顧問にご就任いただき、今後もご指導を賜ることとなった。新理事長に上平貢氏の就任が決定。終了後、すぐに先生の祝賀会がホールにて開かれ、古賀一成衆議院議員・北神圭朗衆議院議員・京都府山田啓二知事(代理)・京都市桝本頼兼市長をはじめ多数の御来賓の祝辞をいただき、また会員・聴講者も一同に参集して先生の受賞を祝い盛大に執行された。
先生のお体に変調があり、急遽別室にて安静され、会の終了をみて帰宅された。参列者一同先生の容態を案じながら祝賀会を終える。

新シリーズ白川静『文字講話』講演会第四回完了
 平成十七年七月十日、国立京都国際会館大会議室にて惜別の思いの中で、長い年月続いた『文字講話』の幕は静かに降ろされた。もう二度と開かれることのない講演会の終了に一抹の寂しさと充実感が、感涙が頬を濡らしていることさえ忘却させていた。

病床の白川先生をお見舞いー最後のお別れになるとはー
 主治医より白川先生が会いたがっておられるので、病院にこられるように先生の伝言の連絡があった。主治医の話によると病状はあんまり快方に向かっておられず、早めの訪問をすすめられた。とりあえず、服部和子理事に内田病院長を経由して、白川先生の面会の承諾を得てお見舞いに行くこととなった。
 十月十二日、病床の先生を服部和子理事と家内の三人でお見舞いに行き、「よく来てくれたか。みんなに知らせてくれ」とか、優しい眼差しで、幼少の頃、福井の家でお兄さんがお謡いを習っていた時のことや、これからの学校教育における学年別配当文字の不合理や新字体のことなど中心に絶え間なく訴えるかのように語られた。
 その間しっかりと私の手を握っておられ、「漢字普及や学校教育における指導法は君たちでなければできない。頼むよ」また「幼児教育をして欲しいと頼んだが、こんなに早く実現できたのは君のお陰だ。ありがとう」また、「漢字の普及活動も文字文化研究所でないと推進できない。立命館では無理だったよ」といわれ、握った手に力が入る。
 私が「これからも立命館と協力して白川文字学を定着させますからご安心してください」と申し上げると「頼むよ」とか、生前に先生のお宅で字通や字統の解説や字形について、色々訂正や補足のお話をしていたことがあった。いずれ改訂版で修正をするお気持ちであった件について、「もう私は退院できそうだ。何にも治療しないんだよ、少し良くなったようだ。宇佐美君、
一週間ぐらいしたら退院できると思うので、その時に話をしよう」その言葉を聞き私は心の中で涙した。慙愧に耐えない思いが身体中を駆け巡った。
 九月三十日に立命館大学が中川会館の中に設置を約束した白川静研究室の完成を楽しみにされ、京都市主催の講演会の中で、そのことを聴講者に嬉しそうに話されていたことを思い出しながら‥‥。
 今から考えるとそれだけが心残りであったのだろうか。病床に入って先生のお顔を見て死期が迫っていることを察した。先生は「今は何の治療もしていないので、近い内に帰れると思う。その時話したいこともあるので来るように」と言われたが‥‥。
帰りがけに服部先生や慈子に握手し笑顔で「ありがとう」と名残惜しそうに声をかけられたのが、この世の最後にお会いできた先生のお姿であった。
 帰り際に院長に内緒で、白川先生の容態を私の感じたことを述べたところ、実はかなり容態が悪化し、手の施しようがないことを話された。このことは絶対に口外しない約束であったが、今、真実を打ち明けても先生にはご迷惑はおかけしないと願いながら、お許をいただこう。


訃報 白川先生ご逝去
    享年九十六歳六ヶ月 戒名 顕学院本覚静観 位 

平成十八年十月三十日、京都市内の病院にて十月五日に入院加療に努められておられた白川静先生が不帰の人となった。

 

 

9 「病状報告」   宇佐美公有先生を偲ぶ    泉  孝英 

 平成二十八年十一月二十三日、宇佐美公有生生が逝去された。八十一歳。先生は私より一年先輩である。先生の「文字文化に懸ける情熱」を思えば、もう少し元気に活躍していただければとの思いは先生の知るすべての人々に共通した思いである。
 しかし、医師としての私の立場からみれば、これだけ数多くの病気を持ちながら、最後の最後の日まて「明るく前向き」に行動されたことは「驚異」、「奇跡」の三つの言葉をどう組み合せても説明できることではない。 
 医師として、「先生の病気とのお付き合い振り」を書かさせていただいて、先生への追悼記とさせていただきたい。
 患者としての宇佐美公有氏にお会いしたのは、平成十六年六月十一日である。以来、十二年あまり主事医を務めさせていただいたが、私の場合、いわゆる主治医でなく、あまりにも多くの病気をお持ちであったので、先生のお話を聞いて、しかるべき、専門の病院、専門医に紹介し、診断をいただき先生に病気へのしかるべき対応を説明する仕事であったので、正確に言えば、「相談医」の十二年であった。ただ私の指示をおとなしく聞いていただける先生ではない。先生は自己判断で行動されていた。私の役割は「お小言役」であった。
・生活習慣病ー 平成十六年六月、初めて先生にお会いしたとき、すでに立派すぎる「高血圧症」、「糖尿病」の持ち主であった。
糖尿病は進行し、十九年四月には糖尿病性末梢神経障害、七月には腎症、さらに病は網膜障害も起ってきた。視カ障害が起っても、先生が車を運転するのを止められなかった。私の叱言は「馬耳東風」であった。
・脳梗塞ー平成二十年一月のことである。脳梗塞と診断されても、なにごともなく振る舞っておら れた。
・肝細胞癌ー平成二十二年十月には、京大病院で摘出手術を受けられた。アルコール性肝炎の診断は以前から受けられていた。以後、何回が再発、その度に化学療法を受けたが、活動、言動には変化なしであった。加えて、膵臓癌の併発もみられた。
・委縮性側索硬化症ー平成二十七年の夏が過ぎて、先生は、この「神経難病」にみまわれることになった。
 秋になって、先生は声がでない、嗄れ声になったと訴えれるようになった。歯の修理が悪かったかと歯科を受診され、耳鼻咽喉科も受診された。
 この前後から、先生のために腐心されたのは、私共、中央診療所の神経内科医荻野俊平医師であるさまざまな科の先生方に相談された。
 二十八年二月になると、元気な先生が筆談という残念なことになった。三月京大病院へ検査入院、難病中の難病「筋萎縮性側索硬化症」との診断が確定した。
どうして「宇佐美先生がこのような雖病に遭遇せねばならなかったのか」医師として立場を離れての私の感想であった。
 以後、リハビリテーションを含め長期療養のため、武田病院に再三入院させていただいた。筋力低下から、絶えず、嚥下性肺炎を繰り返されるようになった。
 しかし、お会いすれば、一生懸命な握手とともに、立派な文字を綴られ、鎮舌以上の筆談で話しかけられる先生だった。
 平成二十八年八月十二月の朝、私は滞在先のフッティング病院(ストックホルム)の玄関で、慈子夫人からの携帯電話を受けとった。「延命のため人口呼吸器の装着を医師に勧められたが、宇佐美は望んでいない。どうしましょうか。」とお尋ねであった。「先生の意志を尊重しましょう」と答えさせていただいた。夏とは言え、外は十度前後の寒さであった。
 以後三ヶ月余り、懸命に生きられ、日本人男性の平均寿命80.79年をクリアされた。「警異」「気カ」「奇跡」の三つの言葉だけ。これに「お坊さん」の言葉を加えても説明できない先生だった
 しかし、実際に、先生のこの生涯を支えたのは、慈子夫人である。

 病名、病状をありのままに記述することを許していただいた慈子夫人に深く感謝する。                         

                              30周年記念誌より